アーティストとデザイナーとクリエイターの違いと、私が感じる違和感について

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子供の頃、レゴブロックで遊ぶのが凄く好きだった。緑色の板の上に色んな四角や丸を積み上げて、城みたいな大きな構造物を作っては壊していた。

作り上げたものに対する達成感や愛着が薄くて、作ったら壊すことに躊躇いを感じなかった。ブロックを積み上げるのが楽しいのだ。プロセスである。

  

どの歳で、どのポジションで働いて遊んでいても、「アーティストとデザイナーの違い」「自分はどちらでもないこと」「(WEB)クリエイターと自称していること」等について、ふと考えることがある。

それは肩書という組織から与えられた便宜上の呼称のことではなくて、どちらかと言うと「生業」というか、自己認識と他社理解に関わるような命名し辛い問題だと思う。

自分は何であって、他の人はどうであるのか、だから自分はこっちに歩いていくんだなという、たまに振り返って確認するような指針を立てているような気がする。

 

私は今のところ、自分をクリエイターだと思っている。アーティストでもデザイナーでもなく、クリエイターが一番しっくりくる。だから組織から何という肩書を与えられようが特に何でもよくて、組織を離れている時に「何やってるの?」と聞かれたら「クリエイター」とか答えるようにしている。

しかし特に最近は、これでもちょっと違和感がある。クリエイター。うーん。まあいいか、という感じ。

 

この記事ではそんな私のアーティスト・デザイナー・クリエイターに対する理解を整理しておこうと思う。

 

目次

 

アーティストとは

 アートの起源を辿ろうと思ったら、紀元前◯千年に◯◯原人が洞窟に残した絵が~という話になるんだろう。それを描いた奴が何をどう考えていたかなんて知る由も無いんだけど、何となく、楽しかったろうと思う。あと暇だったんだろう。

人間は絵を描くし音を奏でるし文章を書く。最初は四角や丸を描いていたものが、段々と絵の具の種類にまで凝るようになり、今ではコンピュータを使う。

誰かから依頼されなくとも、見せる相手がいなくても描く。 だって、原人でも描くのだ。

アートとはデザインよりも遥かに起源が古く、どこかの◯◯原人が何の気もなしに得も言われぬ適当な感情に突き動かされて線を引いたら絵になった、みたいな感じに違いないと思う。 

そこに動機や理由など無いに等しいと結論づけても良いような気がするけど、それでは面白くないので、私は次のように考えている。

 

アートは、もの凄く人間の近くにあった。それは商売よりも遥かに近くというか昔からあった。だって、原人でも描くのだ。

そこまで昔から人間の近くにあった動機とは?

それは喜怒哀楽、ひいては感情である。動機は、input と言い換えてもいい。

◯◯原人は、初めて馬が駆けるのを見た。たぶん、びっくりした。すごい。速い。力強い。だから描いた。それだけだ。

 

今の人間だって変わらない。普段は丸めてゴミ箱に捨てる紙くずを、怒った途端にビリビリと破いて粉々に造形する。楽しいと聴いたことがないはずの適当なメロディを即興で作って鼻歌にする。子供は丸を描いて、これは母親だと言う。

アートとはどこまでいっても感情表現の延長線上にあり、その応用として感情以外のものを表現したり、ただ表現の手法を変えているだけだと思う。色んな人が色んな表現を繰り返してきた結果、実に様々な表現がアートと呼ばれるようになった。多くの作品が生まれたので、優れたもの・そうでないものを人間は区別したがっている。

 

もはやアートのinput は何でもいいし、output だって何でもいい。目的は「それ」を「表す」ことだ。

目にしたものを可能な限りありのままに表現しようとする人達は、まるで写真のようなスマートな馬を描いた。その一方で、感覚的な主観に任せて現実を歪め、とにかく馬鹿でかくて四肢の太い馬を描くことによって、その力強さを表現しようとする人達もいた。

どんどんと試行錯誤を重ねて趣向を凝らし、「それ」を「表現」しようと四苦八苦し続ける人達が、アーティストと呼ばれている。

 

馬を売る商売人が、アーティストに看板に馬を描いてくれと言った。とあるアーティストが馬鹿みたいに胴体と四肢の太い馬を描いた。商売人は「いや、これ馬じゃねえから。」と言った。アーティストは言い返した。「馬とはこういうものだ。」

 

アーティストのまとめ

  • 試行錯誤を重ねて趣向を凝らし、「それ」を「表現」しようと四苦八苦し続ける人達
  • input は何でもいいし、output だって何でもいい
  • どこまでいっても感情表現の延長線上にある

 

デザイナーとは

デザイナーと呼ばれる人達の登場、その起源についてはデザインの本を何冊も読んだ時期にいくつか学んだ記憶があって、その中で最も印象深かったのは「産業革命とデザイナー」の話である。

曰く、産業革命によって工場で製品を大量生産するためには、その製品の型を設計する人が必要になった。それがデザイナーというわけだ。

ただし、これには違う話もあったと記憶している。

産業革命によって工場で製品が大量生産されるようになった結果、皆が無味乾燥な同じようなものばかりを身につけるようになった。それがつまらんという反動から「もっと最適化されたものを」という欲求が高まり、その最適化を担うのがデザイナーである、など。(すごい適当に書いたけどウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動の流れに近い。) 

 

デザインという言葉を大辞林で調べると、

作ろうとするものの形態について,機能や生産工程などを考えて構想すること。意匠。設計。図案。

 ー 大辞林三省堂)「デザイン」より引用

 とあり、前述のどちらの話であれ、「『それ』の『形を整える』こと・そのための構想」であることに違いはない。

どうして形を整えるのかと言えば、

  • より多くの人に手にとってもらうため
  • 「それ」を目的に対して最適化するため

とか、そんなところだろう。

 

産業革命のくだりからそうだけど、デザインは商業と密接に関わっている。アートとは違い、感情がどうとかoutput が何でもいいとか、そういうわけにはいかない。

より目的がはっきりしていて、ターゲットがはっきりしているのだ。

単なる丸を描いて、それが母親だと言ってもアートにはなるかもしれないが、デザインにはならない。その丸を見るのが誰であって、どういう状況でそれを目にし、その先にどういった行動を取ってもらいたいのか等が考慮されていない限りは。

 

そのようにデザインとはアートよりも明確に狙いを定め、ギリギリまで弓の弦を引き絞る行為そのものであり、その射手がデザイナーである。

デザイナーがアーティストと混同されがちなのは、デザインの過程にアートの手法を用いるからだ。

デザイナーは「それ」の「形を整える」ために、例えば「ハイライト・シャドウ」に関する技術を用いる。しかし、その技術とは遥かに昔からアートの世界で培われてきた光と影の表現を応用したものであったりする。そういう事情が重なりに重なって、傍から見るとデザイナーとアーティストがやっていることが区別し辛いように見えるのだ。

 

馬を売る商売人が、デザイナーに看板に馬を描いてくれと言った。 デザイナーは質問した。「あんたの売る馬の特徴は?あんたの馬を買うのはどんな人だ?」

 

デザイナーのまとめ

  • デザインとは『それ』の『形を整える』こと・そのための構想」
  • デザインは商業と密接に関わっている
  • アートとは違い、output が何でもいいということはない
  • デザイナーがアーティストと混同されがちなのは、デザインの過程にアートの手法を用いるから

 

クリエイターとは

さて、クリエイターである。冒頭で自身をクリエイターだと思っていると書いたけど、それは殆ど消去法によるものだ。

私はアーティストでもデザイナーでもない。そこははっきりと自認していて、アーティストという生き方もデザイナーという生き方も、私は意識して「そっちにいかない」ように選んできた。

 

クリエイターという言葉を大辞林Wikipedia 等で調べると、「創造的な仕事をしている人」という定義が書かれている。Wikipedia によると、クリエイターという大区分があって、その小区分に「芸術家」「作家」など、私がアーティストに近いと思っている区分が属している。

他にも色々と調べていくと、クリエイターとは本当に幅が広い定義だということが分かる。そもそも「創造主=神」という定義まで存在し、というかそれが一部の国の人々にとっては当然の話なのだ。

 

それらを自分なりに一言でまとめると「何かを生み出す・作り出す人」といった感じになる。

  • グラフィックデザイナー
  • コピーライター
  • ゲームプログラマ
  • シンガーソングライター
  • 振付師
  • インテリアコーディネーター

など、実に様々な人々がクリエイターの範疇に入れて語られており、その中にはアーティストと呼ばれている人もいればデザイナーと呼ばれる人もいる。

ということで、デザインに真面目に取り組んだ時期もあればゲームプログラミングにハマった時期もあり、文章を書くのが好きな私は大区分のクリエイターでいいんじゃないのかと思うのだ。

 

ただ私は、「創造」と呼ばれるほど、何か(新しいもの?)を生み出すことに自体に特に興味がないし喜びを感じない。

私が違和感を感じているのは、そこだったりする。

いきなり興味とか喜びという話になっているが、結局のところ自分がどのように生きていくかの中で最も重視しているのが私の場合は興味と喜び、ひいてはそこから繋がる楽しさだからだ。

 

冒頭に書いた通り、私が最も楽しんでいるのはプロセス、それも作り上げる過程そのものだ。

input は無くてもいいし、正直言うとoutput だって割と何でもいい。誰かや何かとコラボしようがしまいがどっちでもいい。ただ、共同作業はどっちかと言うと好きではない。だって、自分一人で作った方がプロセスの全てを独り占めできるから。

何か大きなものを作り上げるためには、どうしても他人の手が必要だ。それならべつに大きなものなんて作らないほうがいい。大きな何かを生み出し後世に残すこと自体は、重要ではないからである。

私は「それ」を作り上げている過程に流れている時間、それの形を考えたり、それを構成する素材やアーキテクチャを検討したり、実際に手を動かして形を整えている瞬間そのものに最も価値を感じる。時間が許す限り、ずっとそれをしていたいと思う。

果たしてそれは、クリエイターなのだろうか。

 

馬を売る商売人が、クリエイターに看板に馬を描いてくれと言った。 クリエイターは想像している。どんな手法で、何の絵の具を用いて、どのような馬を書くと良いだろうか。

  

クリエイターのまとめ

  • クリエイターとは本当に幅が広い大区分の定義
  • クリエイターとは「何かを生み出す・作り出す人」
  • クリエイターという大区分の中にデザイナーは入る。アーティストは分からない。

 

余談(指揮官「ディレクターについて」)

余談だけど少し前に、現在の私のメンター的な存在である人から「君は本当の意味での『指揮官(ディレクター)』だ。君がいないと、実に様々な物事が止まる。だから君は指揮官として、それに合った生き方をしていかないと、この先は上手くいかないぞ。」ということを言われた。

今までも似たようなことを言われていたような気がするけど、やっとその意味が少し理解できた気がしていて、要するに私が望む望まないに関わらず、どこで何をしていようが私はクリエイターではなく指揮官(ディレクター)なのだから、そう生きていかざるを得ないということだ。

それについては思い当たる節も説得力もあって、どうしたものかねえ、という感じ。

 

興味や喜びと幸福は直結していると私は考えていたタイプだけど、世間一般的には恐らくそうではない。興味や喜びと幸福は直結していない。そして最終的には幸福を目指すのが大半の人間ではないのか。私だって最終的には幸福を目指しているはずだ。

そういう考え方をするようになっただけ、少し大人になったと個人的には思う。

 

特に実りのない話だけど、昔から考えていたことだけに割と長くなってしまった。

悩んでいる自覚はないんだけど、きっと深層心理的なところで悩んでいるんだろうな。